2004年05月31日

「木造とは明るい諦めである」

隈研吾さんの「負ける建築」を引き続き。

「コンクリートの時間」の項。現場打ちコンクリートの造形の自由度を評価して、20世紀における時代の普遍的な万能技術と。流動体が一瞬に形をなして固定化する。ところが、

「今や、そのような固定化こそ、人々の嫌悪の対象となりつつある。自由を自由のままに楽しみ、移り行くものを移り行くままに享受する生活態度を、人々は獲得しつつある。」

で、ここからが面白いところだけど

「そのような時代には、永遠に固定化することのない材料、工法が求められるようなるだろう。たとえば木造の時間。」
「木造は…いつもそこそこに不自由で、そこそこに弱い。そこそこの状態のままで、だらだらと、さらさらと続くのが、木造の時間の特質である。その工法的不自由さゆえに、都市にはある一定の、スケールの統一感、形態の統一感が保持された。」
「建物が完成した後ですら、建物は十分に弱く、人々は手を加え続け、…そこそこに自由であり続ける事ができた。」

皮肉な礼賛が続く、

「中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのでなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今だらだらと夢想している。」

ちゃんちゃん

木造が持つ融通無下さ加減は、設計のコントロールなしには良き形にはなりにくい。それはどんな工法・素材でも同じだけど、木造は、それこそ誰にでも扱えるような顔をしているから、隈さんのような作家には見事な手捌きを見せる手段としては、不自由に映るのかも知れん。

木造を下敷きにした鉄鋼系ハウスが、今、直面している悩みが、隈さんの「夢想」にピッタリと重なる。
工業化もプレハブも目的は形に向かう固定」と隈さんは言う。

でも、僕は、今かかわっているハウスシステムが木造と同じように「曖昧なだらしない」ものになるべしと、真剣に考えている。
オープンな工法として溶解して見えなくなれ!
posted by 店主 at 01:46| 大阪 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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